人の子の権威

 イエスさまがカファルナウムの家で御言葉を語っておられたとき、たくさんの人が集まっていました。そこへ、4人の男性が、体の麻痺した人を担いで、イエスさまのところにやってきました。この人を癒してもらうためです。家がいっぱいで入ることができなかったので、この人たち屋根に登り、屋根を剥がして、病人をイエスさまのところに吊り下ろしたのです。彼らは、きわめて熱心にこの人の癒やしを願って、常識にとらわれず、できる限りのことをしたのです。「体の麻痺」は、一刻を争うような病気ではありませんでした。こんな強引なことをしなくても、家の外で待っていてもよかったのではないか。でも、彼らはそうしませんでした。イエスさまは「時は満ちた。神の国は近づいた」という言葉で宣教を始められました。時がきた、神の国が実現しようとしているのは他でもない今だ。預言者イザヤが「見えない人の目は開けられ、聞こえない人の耳は開かれる。その時、歩けない人は鹿のように跳びはね、口のきけない人の舌は歓声を上げる」と言ったように、この病人もまた立ち上がれるようになるはずだ。病人を連れてきた人たちはそのように信じたのです。イエスさまはこれを「彼らの信仰」と認められました。病人自身の信仰ではありません。それは全然問題にされていないのです。「信仰」という言葉の語源は「説得する」という動詞です。そしてイエスさまは、病人に対して「子よ、あなたの罪は赦された」と宣言されます。イエスさまは、まず悔い改めなさい、もう罪を犯さないように努力しなさい、とは言われませんでした。「赦された」と宣言されたのです。赦しは、神さまとの関係を正しい状態に戻すことです。罪を赦すことは可能だ、わたしにはそれを行う権威がある、とイエスさまは言われたのです。

 このとき、イエスさまの言葉を聞いていた人たちの中に、何人かの律法学者もいて、「心の中で」この人は神さまを「冒瀆している」と考えたのです。イエスさまはそれを見抜かれて、反論されました。体の麻痺した人の物語は、癒やしの話であると同時に、論争の話でもあります。彼らが問題にしているのは、人間に過ぎない(ように見える)イエスさまが罪の赦しを宣言されたことです。ここでは彼らは表立って非難していませんが、3章の初めになると、どうやってイエスさまを殺そうかという相談をもう始めています。のちに最高法院は、神さまに対する冒瀆、という罪で、イエスさまに死刑を宣告します。

 ここでイエスさまは初めて、御自分のことを「人の子」と言われます。「人の子」というのは、ダニエル書をはじめとしたユダヤ教の黙示文学に出てくる、終末の時に現れる裁き主、救い主で、ユダヤ人にはよく知られていました。そして終末的な・超越的なメシヤ待望とも合体していました。この日カファルナウムの家に集っていたユダヤ人、そして、マルコの教会のユダヤ人にとって、イエスさまが救い主であり、神の子であり、従って神であり、「人の子」である、ということは、躓きのきっかけになる要素ばかりでした。この御方はどなたなのか、という問いを、いろいろな癒やしのわざや譬え話や教えを通してマルコ福音書は繰り返していきますが、必要な要素はもうここに出揃っているのです。

 「起きて床を担ぎ、家に帰りなさい」と命じられた人は、そのとおり起き上がります。寝たきりであった人が自分の足で歩くようになるのを、そこにいた皆が目撃し、驚嘆します。新しいことが起こっている。ここに神の国が実現しつつある。病気の癒しだって十分に驚くべきことですが、もっと大きなことを人々は目撃したのです。「起きる」という言葉には「復活」の意味もあります。ただ麻痺から解放されたというだけではありません。新しくされ、神さまとの絆を取り戻して、家に帰っていくのです。そして、イエスさまがここで宣言された罪の赦しは、この人にだけ起こったのではありません。イエスさまは、十字架で死なれる、という形で、わたしたちすべての罪を赦してくださるために、人間のひとりとしてこの世にきてくださいました。この大きな恵みが既にわたしたちにも差し出されている。それを受け取って、「わたしの主、わたしの神よ」と告白するようにと、わたしたちは招かれているのです。

 

高根祐子